上里町の神社

こちらのページでは上里町内に鎮座する神社の御祭神・由緒・境内神社等を写真入りで紹介します。
HOME | 上里町の神社 | 嘉美神社

嘉美神社

かみじんじゃ

 

鎮座地

上里町金久保610番地
(大字嘉美字熊野大神南)
  鎮座地の嘉美は、明治7年に立野(たての)村と久城(くじょう)村が合併して嘉美村となり、その後明治22年に七本木村の大字となった。現在は上里町の大字である。
 

主祭神

  • 熊野大神(くまのおおかみ)
  • 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)
  • 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
  • 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
  • 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
  • 誉田別命(ほんだわけのみこと)
  • 外二柱

由緒

 当社の創建は中世までさかのぼる。当村では古くから群馬県碓氷(うすい)郡の碓氷権現(うすいごんげん)社(熊野神社)を虫除けに霊験のある作神として崇敬してきたため、当社は碓氷権現から分霊を勧請し、熊野神社と称していた。
 社内に応永10年(1403)癸未十月三日と銘のある石仏の阿弥陀があったという記録がある。また、境内には永正12年(1515)の銘のある石堂があり、これは埼玉県下でも古い例として注目される。ただ、石仏のほうは明治期の神仏分離政策によって本殿から出され、その後所在不明となっている。
 享保13年(1728)に正一位の神位をを受け、社地を現在地に移し社殿を再建した。明治5年に立野村の村社に列し、明治43年に嘉美に鎮座する字下郭天神東の村社天神社、字一本松西の村社皇大神社、字上郭天神西の村社天神社をはじめとする13社を合祀し、社名を嘉美神社と改称した。以降当社は大字嘉美の鎮守として崇敬されている。
 

 

祭日

 

  • 1月3日(歳旦祭)
  • 4月3日(祈年祭)
  • 7月第3日曜日(夏祭り)
  • 10月19日(秋祭り)
  • 11月23日(新嘗祭)
     

 いずれの祭事も総代・年番・区長を始めとする地区委員・議員が参列し、午前10時から神職の奉仕で祭典を執り行った後、社務所で直会となる。
 秋祭りは、五穀豊穣を感謝する祭りで、前日に年番が境内を清掃し、当日早朝に幟立てを行う。この日は各戸で赤飯を炊き、銘々で当社に供えて参拝する。
 

 

夏祭りの様子
 

 当地では、神社合祀によって伝統的な祭りが失われ、当社においても祭事は長らく簡素に行われてきたため、地域住民の交流の場がなく、自治会の運営などにも支障をきたしていた。そのため氏子の間から嘉美地区を挙げての祭りを始めようという声が上がり、協議した結果、昭和59年から当社の夏祭りを行うことになった。当日は年番により拝殿に御輿が飾り付けられ、神職の奉仕により御霊移しが執り行われる。その後、地元の子供たちが御輿を担いで当社から繰り出し、集落の境で次の子供らに受け継ぎ、所々で休憩を取りながら、氏子区域を一回りして、午後3時頃に再び当社へ帰ってくる。休憩所には自治会や育成会の役員によってかき氷やジュースが用意されており、これも子供たちにとっては楽しみの一つである。このように夏祭りは総代・年番ばかりでなく、自治会の協力も得て多数の住民も参加するため、新住民を含む氏子の間からは今までにない地域の連帯感を感じることができると好評である。
 

境内神社

 
八幡神社

祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと)

八雲神社

祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)

愛宕神社

祭神 迦具土神(かぐつちのかみ)

天神社

祭神 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
 

 


 当社には永正12年(1515)の在銘石堂が存在する。石堂は石殿、石宮などとも呼ばれ、中世後期から出現する。村落内で仮宮を作って祀っていた神々が石宮になったと思われている。屋根はほとんどが草堂を模した寄棟造りであり、やがて近世にはいると、流造りの石宮が大勢を占めるようになる。
 石堂で中世在銘のものは少ない。当社の石堂の屋根は寄棟造り草堂形で軒が厚く、堂身は刳り抜きで、入り口は将棋の駒形、窓は入り口の上に左右各4窓がつけられており、中世の特色を示している。(参考 上里町史)
 

中世在銘の石宮