上里町の神社

こちらのページでは上里町内に鎮座する神社の御祭神・由緒・境内神社等を写真入りで紹介します。
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黛神社

まゆずみじんじゃ

鎮座地

上里町黛1番地
(大字黛字村西)
 
 当地は烏川と神流川の合流点付近に位置する。文禄4年(1595)の検地帳では金窪村に属していたが、元禄11年(1698)に黛村として分村した。
 すぐ南は忍保川と面し、西には中山道から分岐して上野国(群馬県)玉村宿を経て越後国に至る三国街道が通っており、渡船場として栄えていた。
 

祭神

 
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 

由緒

 
 由緒不詳であるが、往事、丹党の支族黛某が勧請した神社であると伝えられている。当初は黛大明神と称して烏川に接する地にあったが、たびたび水害にあったため、いつの時か現在地に移転した。一時は社具司(しゃぐし)明神とも呼ばれていた。正徳3年(1713)に神階正一位を受けた。
 当社のすぐ東隣にあった天台宗観音寺が別当を務めていたが、明治の神仏分離により観音寺から離れ、明治5年村社となった。明治7年に観音寺は廃寺となった。明治44年に諏訪神社、大杉神社、豊受神社の3社を境内に合祀した。
 

 

祭日

  • 2月8日 (鎮火祭)
  • 4月3日 (春祭り)
  • 7月15日に近い日曜日 (天王様)
  • 天王様の翌日 (大祓)
  • 10月19日 (秋祭り)


 天王様は昭和10年代までは暴れ御輿が出ることで有名であった。祭典終了後に男衆が御輿を担いで神社を出発し、まず忍保川に御輿を投げ入れ、川中で転がして洗い清めてから「オイッサあおりや、オイッサあおりや」と威勢のよい掛け声で、氏子を一軒ずつ回った。家の庭先ではまず神職が祓ってから一行が庭に入り、御輿を降ろして酒一升ときゅうりを供えた後、家族と一緒に皆が御輿に拝礼した。区長や年番の家では、この後に御輿を庭先で転がし、水をかけたりもした。御輿に供えた酒はその場で頂き、また、見物人にも振る舞うので別名「酒祭り」とも呼ばれたという。村回りを終えると、「宮入れ」と称して御輿を練りながら社殿を三周して御輿庫に納めた。なお、祭りの翌16日は「祭り明け」、17日と18日は「農休み」と称して、年番と有志が拝殿で残った酒を酌み交わしたものであった。現在天王様は7月15日に近い日曜日に行われている。境内にある八坂神社前での祭典終了後に子供育成会主催の子供御輿が天狗を先頭として村内を回る。
 

 
八坂神社祭典・子供御輿


 また、養蚕が盛んであった昭和の初め頃までは、当社の秋祭りに赤飯を供えると蚕が大当たりするとの信仰があり、しかもそれが早ければ早いほどいいと言われたので、氏子は前夜に赤飯をこしらえ、午前零時前から競って神前に並び、日付が変わると同時に参拝した。最初の人だけが殿内の太鼓を叩けるのも、競争に拍車を掛けたという。

境内神社

八坂神社

祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと)
由緒 不詳。7月の天王様はこの八坂神社の祭典。

 

 

諏訪神社

祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)
由緒 かつて当地の名主を務めた小暮家の先祖が信濃国上諏訪から移り住む際に、諏訪神社を守護神として勧請したのが始まりと伝わる。本殿に納められた幣帛箱には正徳6年(1716)に神祇管領吉田家から正一位を拝受したことが記されている。寛政元年(1789)には烏川の決壊のため旧社地及び社殿が流され、文化7年(1810)に字東耕地に遷座。明治44年に黛神社境内に合祀された。

 

大杉神社

祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)
   大山祇命(おおやまつみのみこと)
   倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
由緒 不詳。明治44年字東耕地に鎮座の諏訪神社境内社大杉神社を当社境内に移転、境内神社とした。
 

豊受神社

祭神 豊受姫命(とようけひめのみこと)
   倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
由緒 不詳。明治44年字大道西鎮座の豊受神社及び同社境内社稲荷神社を合祀し当社境内に移転、境内神社とした。