延喜式内 今城青坂稲実池上神社
いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ
鎮座地
上里町忍保225番地
(大字忍保字稲実)
祭神
伊吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)
豊受姫命(とようけひめのみこと)

由緒
当社は烏川を背にして祀られており、「忍保(おしぼ)の稲荷様」あるいは「池上神社」の通称で呼び親しまれている。
延長4年(926)の『延喜式』神名帳では武蔵国四十四社、賀美郡四社のうちの一社に列している。社名の「いまき」は「今来」すなわち「新来の人」の意で、帰化した渡来氏族が当地に高度な稲作技術を導入し、稲魂を祀ったのが当社の創始である。


和銅4年(711)勧請と伝えられ、忍保庄の総社として崇敬されていた。古くは養台寺において別当を兼務し、神事を司っていた。元弘年間(1331-34)に新田義貞が金窪(かなくぼ)城を修築した際、城の艮(うしとら)の方角(東北の方角=鬼門)に位置し、荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとして戦勝を祈願した。以後、大永年中(1521-1528)の斉藤盛光ら代々の城主の崇敬を受けたが、天正10年(1582)6月18日に始まった織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との「神流川の合戦」の兵火により社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された。


元禄7年(1694)の大洪水で社殿が流出したが、本殿だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興した。しかし、元禄11年(1698)に信俊の孫、武田信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどった。
その後、元文3年(1738)に地頭から鳥居の再建と供米の奉納があり、さらに、嘉永年間(1848-54)には地頭から社殿の修繕と神田の寄進があり、徐々に社運を盛り返した。
明治5年村社に列し、同32年には県社に昇格した。現在の社殿は明治12年に改築されたものである。


祭日
- 1月2日 歳旦祭
- 3月17日 祈年祭並びに老人会健康祈願祭
- 5月2日 生産倍盛交通安全祈願祭
- 6月30日 大祓式
- 7月25日 斎田祭
- 10月17日 例祭
- 11月27日 新嘗祭
- 12月29日 大祓式
当社にはかつて「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座があり、祈年祭、生産倍盛交通安全祈願祭、例祭で上演されていた。特に「投げ餅」の際には多くの見物人を集め、近郷各地の神社の祭りへも出向いたものであったが、後継者不足から昭和六十年代に入り途絶えてしまった。
「生産倍盛交通安全祈願祭」は従来行ってきた「養蚕倍盛祈願祭」を養蚕の減少に伴って昭和49年にその名称を改めたもので、元は「八十八夜祭」と通称されていた。養蚕が特に盛んであった昭和10年頃までは、この日に氏子は銘々で米の粉でこしらえた繭玉を持ち寄り、当社に供えた。
境内神社
宮西神社
祭神
- 大己貴命(おおなむちのみこと)
- 少彦名命(すくなひこなのみこと)
- 建御名方命(たけみなかたのみこと)
- 埴安比売命(はにやすひめのみこと)
- 熊野久須美神(くまのくすびのみこと)
- 速玉男命(はやたまのおのみこと)
由緒
明治40年4月20日当社境内社加茂神社(祭神 別雷命)、八坂神社(祭神 建速須佐之男命)、字一本松諏訪神社(祭神 建御名方命 往古は字上忍保に鎮座していたが、度重なる洪水で社地定まらず)、字稲実丹生神社(祭神 埴安比売命 祭日9月29日)、字熊野熊野神社を合祀し、社号を「宮西神社」とし、当社境内に移した。

八坂神社
祭神
- 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
由緒
昭和21年2月9日当社境内神社宮西神社の祭神建速須佐之男命を分祀し、八坂神社を創建。
祭日
7月1日(祇園祭)

雷電神社
祭神
- 別雷命(わけいかづちのみこと)
由緒
昭和21年2月9日当社境内神社宮西神社の祭神別雷命を分祀し、雷電神社を創建。
祭日
7月25日(雷電祭)

総社神社
祭神
- 式内当国四十四座之神
由緒
不詳
北野神社
祭神
菅原道真公
由緒
不詳
医祖神社
祭神
- 少彦名命
由緒
不詳